琵琶湖文化館 the Museum Of Shiga Pref
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第60話 国史跡崇福寺跡出土 塼仏

 塼仏(せんぶつ)とは、仏の姿を彫り込んだ型に粘土を詰めて型抜きし、乾燥させた後に窯で焼いて作った仏像のことを言います。このような仏像は、寺院堂塔内の壁面の装飾、あるいは念持仏(ねんじぶつ)として使用されました。

 

 塼仏は特に、中国・唐の時代、三蔵法師玄奘(げんじょう)(602-664)が、645年にインドへの求法の旅から帰国したのちに長安の都で大流行し、日本へは遣唐使として赴き玄奘に学んだ留学僧たちが持ち帰ったようです。7世紀後半から8世紀にかけての一時期盛んに作られ、奈良県の橘寺、山田寺、川原寺、当麻寺などをはじめとして、三重県の夏見廃寺など地方寺院からも多数出土しています。

 

 大津市滋賀里の山中にある崇福寺(すうふくじ)跡より出土したこの塼仏は、いくつかの破片からなりますが、一個体にすると、縦16cm、横12cmほどの方形で板状の形態に復元できます。表面には、ゆったりとした二重の蓮華座の上に、左足を前にした形であぐらを組んで座り、周りに火炎をあしらった二重円光の光背を背負う如来が一尊、作り出されています。如来は左肩に衣を掛け、露出した右肩の下に続く肉厚の胸の前で、両手を合掌しています。彫が深く眼が吊り上がり、かつ張りのある顔立ちは一見厳しく見えますが、角度によっては実に優しい表情にも見えてきます。

 

 インドの様式を受け継いだ肉感的な作風はまた、初唐の時代の仏像の雰囲気をよく残しているとも言えます。表面に白い胡粉のようなものがうっすらと残るので、元は彩色があったのかも知れません。また、裏面には粗い布目があり、一部には壁土が付着しています。別の個体に、釘穴のような小さな穴の開けられているものがあるので、建物の壁にいくつも並べて貼り付けられていたと考えられます。塼仏は、塔ならびに小金堂跡の北斜面から出土しているので、これらの堂宇の装飾として用いられたのでしょう。


 平安時代の歴史書『扶桑略紀(ふそうりゃっき)』に、668年天智天皇が「大津宮の西北山中」に建てたと記される「崇福寺」の場所は、大津宮の所在地と同様に不明となっていました。そこで、滋賀里山中と南滋賀にある2ヵ所の寺院跡のどちらかが「崇福寺」に当たるのではないかと、1928年(昭和3)と1938年(昭和13)の2度にわたり発掘調査が行われました。調査の後、滋賀里山中の寺跡の塔心礎に埋納されていた舎利容器に端を発した「崇福寺・梵釈寺論争」は、学会を大いに賑わせました。論争の中で、滋賀里山中の寺跡を『扶桑略記』に記される「崇福寺」だと主張する側の大きな根拠となったのが、塼仏を含む遺構・遺物全体の様相から導き出される年代観でした。昭和のはじめ、滋賀県で本格的な考古学の調査・研究が始められた頃の話です。

 

 崇福寺跡出土遺物(塼仏を含む15点)は、2019年(平成31)2月8日から4月7日までの間、滋賀県立安土城考古博物館で開催される第59回企画展「近江の考古学黎明期-近江風土記の丘50周年キックオフ企画-」でご覧いただくことができます。