琵琶湖文化館 the Museum Of Shiga Pref
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近江の文化財

 山水図(さんすいず)   藤本鉄石筆  1幅      江戸時代  本館蔵

 文久3年(1863)8月17日、「尊王攘夷・倒幕」の旗の下、大和国(奈良県)に挙兵した集団があった。のちに天誅組(てんちゅうぐみ)と称されるこの集団の中には、文人画家としても名を馳せた藤本鉄石(ふじもと てっせき)がいた。
 藤本鉄石は、文化13年(1816)、片山佐吉の四男として備前国御野郡東川原村(現 岡山市)で生まれた。鉄石は、幼いころから和漢の学問を好み、和歌や漢詩、書もよくする一方、兵学を学び、武術にも優れていたが、天保11年(1840)に脱藩して京都へ出る。この頃伊藤花竹について南画を学び、山水画・花鳥画を得意として京都で名を成した。また長沼流軍学を修め、剣術は一刀流の免許を得ている。さらに伏見奉行の要請によって伏見に学塾を開いて多くの弟子を集め、学問と武芸を教授していたが、天保14年(1843)、突然旅に出、奈良から紀州を経て江戸に至り、江戸を拠点にして東北を旅し、また中山道を信州から越後に出て、北陸道を下って金沢、福井を経て郷里の岡山に戻り、そこから西に向かって九州から山陰、四国を巡り、ようやく嘉永4年(1951)に京都に戻った。黒船来航以来、攘夷論が高まる中での長期にわたる旅は、国防、軍事のための地理調査ではないかとも言われている。事実、帰京後の鉄石は、清河八郎を介して尊攘派志士たちと交わりを持つなど、尊王攘夷の志を強めていく。

 一切の欲得を捨て、揺るがぬ信念をもって事を起こし、時代に翻弄されながらも、享年48歳で壮絶な討ち死にをした鉄石。彼の遺した絵は、流麗繊細な墨線と、抒情的な表現に特徴があり、実直でやさしい人柄を偲ばせる。