琵琶湖文化館 the Museum Of Shiga Pref
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近江の文化財

 蒲生氏郷書状   1幅     安土桃山時代   本館蔵
 今回ご紹介する資料は、蒲生郡日野出身の武将・蒲生氏郷(がもう うじさと:1556~1595)の書状です。氏郷は、天下統一を進めた織田信長・豊臣秀吉のどちらにも重用され、一土豪から92万石を領する大大名にまで出世した名将です。
 父・蒲生賢秀(がもう かたひで:1534~1584)は元々、近江守護である六角氏の重臣として活動していましが、やがて当時勢力を拡大していた織田信長の軍門に下ります。それに伴って、息子である氏郷は人質として岐阜に送られますが、厚く遇されたようで、信長の娘と結婚しています。その後、父子ともに信長の元で奮戦し、数々の功をあげます。
 信長亡き後は、氏郷が当主となって、羽柴秀吉の元で天下統一に大きく貢献。在所である日野6万石から南伊勢12万石へ、さらに天正18年(1590)の小田原城攻めの後は、会津42万石を拝領します。その後、さらに陸奥5郡と出羽2郡を加増され、40歳で亡くなる直前には92万石を有する大大名となりました。

 本書状は秀吉による天下統一事業、具体的には奥州仕置という秀吉の東北統治に関連するものです。
 そもそも氏郷が秀吉から拝領した会津の地は、奥州の大大名である伊達氏が秀吉によって発せられた、いわゆる惣無事令(私戦禁止令)に反して、武力占領したものでした。結局、伊達氏は秀吉の元にくだり、会津は没収されますが、当地は恭順したばかりの伊達方と天下統一を進める豊臣方が睨み合う最前線でした。そんな領地に移封された氏郷には、順次伊達方から領地引き渡しが行われたようです。

 本書状は、花押(左写真)や内容から天正18年のものと比定され、会津の二本松の引き渡しに関して、9月26日付けで氏郷から家臣である蒲生郷成(?~1614)へ豊臣方の奉行が二本松に派遣されることを申し送りし、配慮するように伝えています(郷成は、この時二本松城および二本松の領有諸事を担当していたようで、翌年には二本松城代に就任しています)。そして、この書状の後の天正18年12月に二本松には豊臣方の総奉行として浅野長吉(後の浅野長政・1547~1611)が入ります。
 難しい領国経営を強いられた氏郷。換言すれば、その重責に対処できると秀吉から見込まれた人物とも言えるでしょう。その仕事の一端を垣間見ることのできる好資料です。

( 渡邊 勇祐 )