琵琶湖文化館 the Museum Of Shiga Pref
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近江の文化財

 史跡紫香楽宮跡(甲賀寺跡)出土瓦     奈良時代   本館蔵
 滋賀県甲賀市信楽町黄瀬の内裏野地区は、大きな礎石がいくつも残り、古瓦が出土するということで、大正15年(1926)に「史跡紫香楽宮跡」に指定されました。紫香楽宮というのは、聖武天皇によって、天平14年(742)から離宮として造営が始められ、天平17年(745)に新京と定められた古代の都です。天平15年(743)10月の大仏造顕の詔は離宮のあったこの地で出され、直後に大仏造営のために甲賀寺の寺地が開かれたと、『続日本紀』には記されています。

 史跡に指定された内裏野地区は、昭和5年(1930)に発掘調査が行われ、東大寺式伽藍配置を持つ寺院跡であることが判明しましたが、大仏を置くには狭すぎるということで、甲賀寺は別の場所にあり、ここは紫香楽宮がのちに近江国分寺となったものと解釈されました。ところが、紫香楽宮については、その後40年以上経ってから、北側に位置する宮町遺跡から大形建物や木簡が出土したことで、今ではこちらにあったことがほぼ確実となりました。では、内裏野地区の遺構はいったい何なのか。新たな謎を解く手がかりの一つが、ここから出土した瓦です。

 内裏野地区出土の軒丸瓦は、単弁17葉蓮華文で、圏線に囲まれた中房に1+8個の蓮子が配されます。弁は17葉の細弁で表し、間弁は小さな三角形を呈します。外区内縁の珠文帯には小さな珠文24個を配しています。直立縁に近い外縁は高く、線鋸歯文をめぐらしますが不鮮明です。軒平瓦の方は、中心飾の両側に四反転する均整唐草文を配置し、小さな珠文を配する珠文帯をめぐらせています。

 これらの瓦は、天平12~15年(740~743)の恭仁京造営期の瓦を模倣したもので、天平18年(746)9月に造営が始まった山背国分寺の塔に使われた瓦と同じ笵を用いて作られています。さらに、最近の研究では、内裏野地区の瓦の方が山背国分寺のものより先に作られたことも突き止められています。つまり、この瓦は天平15年(743)以降、18年(746)9月までの間に製作されたものであり、その時点で紫香楽宮周辺に想定される寺院は甲賀寺しかありません。また近年、内裏野地区の北側約300mに近接する東山遺跡から発見された、大型の掘立柱建物跡や金属鋳造遺構などが、甲賀寺での大仏造営に関する施設であるとも想定され、内裏野地区の寺院跡が甲賀寺であった可能性はさらに高まってきています。

 ところが、問題はそう簡単には解決しません。これまた近年、内裏野地区の礎石群を精密に測量し直したところ、主軸の方位が北からわずかに東に振れることが明らかになりました。この方位は、北から西へ振れる宮町遺跡の遺構の方位とは異なるため、紫香楽宮の時代より後のものの可能性があるというのです。このことから、内裏野地区の寺院跡は、天平17年(745)5月の紫香楽宮廃都後、天平19年(747)5月までは記録に残る甲賀寺が廃絶し、その後天平勝宝3年(751)までにできた近江国分寺ではないかという説も、再び登場してきました。いったい内裏野地区の寺院跡は甲賀寺なのか、それとも近江国分寺なのか。謎は深まるばかりです。